生きテク No.121

焼けただれてしまい変わり果てた姿と残った障害、受け入れられる日なんて・・・
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■生きテク提供者
名前: 古市佳央さん
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■最も自分に過酷だった状況
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16歳の時、当時の僕はいわゆるワルで、
シンナー、マリファナ、ケンカに万引き、あらゆる悪いことに手を出していた。
でも親からもらったルックスのおかげで女性にはよくモテていた。


そんな順風満帆な生活を送っていた中での16歳の春、いつもと変わらぬ夜、
いつもと変わらぬ道をわがもの顔でバイクで暴走していた。


交差点で運転を誤り車と衝突し、バイクが爆発し炎上。


自分自身も全身が炎で包まれ、重度熱傷(やけど)を全身の41%に負った。


きれいな皮ふは焼け落ち、ジャニーズ系で自信のあった僕の顔は、
一夜のうちに家族ですら判別できないほどの怪物のような顔となった


さらには、手の指の関節は固まり、
生涯治ることのない重度の機能障害を負うこととなる。

 


全身の50%に深いやけどを負うと命が危ういと言われている中、
命だけは助かったが、
事故の日から僕は地獄のような苦しみを味わうこととなる。


病院ではすぐに皮ふを移植する手術が行われた。
やけどをしていない背中やお尻からきれいな皮ふを薄くはぎ取り、
やけどを負った箇所に移植する。


その際に壊死してそぎ落とした皮膚は1.4キロにもおよんだ


さらに、皮ふを移植した部分と、そのために皮ふを採った部分、
そしてまだ移植ができずやけどが残るところ全てにガーゼがあてがわれたが、
傷口から
じわじわ浸出液が出て皮ふがガーゼにくっついていく。


それを毎日1回はがし、新しいガーゼにはりかえてもらうのだが、
ガーゼを剥がす時にあまりの激痛で毎回意識が遠のいた。


後になって、この時医師が家族に
「顔はだめ、手もおそらくだめ、もと通りには戻りません」
と告げていたことを知った。


師の言う通り、僕の外見は事故によって大きく変貌した。


耳は溶けてなくなり、ほとんど原形をとどめていなかった。


また、指先は皮膚が溶けてしまったようで爪も何本かなくなり、
神経がむき出しになってしまい消毒の度に激痛が走った。


そんな中で、それまで目をそむけて見ようとしていなかった自分の手を、
ガーゼ交換の時見てしまう。


皮膚は移植の跡からだろうか、網目状の凹凸ができていた。
蛇のうろこのようだったし、
「これが僕の手なのか?これが人間の手なのか?
顔はどうなっているんだ?」
恐ろしい気持ちに襲われた。


また、生き地獄は皮膚の移植手術だけでなく、
機能障害の残った手のリハビリの際にも味わう
こととなる。


事故の影響でダメージを大きく負った両手は、
手の関節を動かさないと軟骨が固まってしまうため
強制的にでも動かすリハビリが必要だった。

そこですでに固まりかけていた箇所を無理矢理看護師さんに押してもらうのだが、
そもそも動かないものを無理矢理押すので拷問のようだった。


「やめてくれ!」と何度叫んでも、やめてくれるわけもなく、
結局僕は口の中にタオルを入れて、歯をくいしばりながら
「本当にこんな痛みを乗り越えてもよくなるのか」と不安を抱えながら
リハビリ地獄に耐え続ける日々を送っていた。


なぜ僕がこんな目に遭うのか、なぜ生き残ってしまったのか、
誰かに殺してほしいと本気で思うようになった。



結局、
16歳から23歳までの間、1000日以上の入院。
手術回数
33回にも及んだ。




■どんなふうに苦しかったか?
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死にたいと思った時に、
僕はそれを実行する術すらを持ち合わせていなかった


骨盤が折れ寝た切り状態だった僕は動くことすらできず、
首つり自殺をはかろうにも、窓や屋上から飛び降りこともできなかった。
自分一人で死ぬことすらできない…運命を呪い、愕然とした。


 

治療を終え退院した後、さらなる苦しみを味わうこととなる。


表に出れば化け物を見るかのような
好奇なまなざしを受けることが何よりも辛く、悔しかった


この苦しみが一生続くのかと思うと死んでしまったほうが楽だと思い、
自殺を考えるようになった。


手が不自由になったことによって、
今まで当たり前にできていたこと
すらもできなくなった。


ある日電車に乗ろうとして切符を買う時に小銭を落としてしまった。
不自由な手で小銭を拾うには両手で拾わないといけない。
でも、僕はその手を他人に見られたくなくて
その場を逃げ出してしまったこともあった。

 

この先自分の将来を考えた時、
恋愛や仕事、生きていく上での様々な苦難を想像すると
ますます生きていくことが不安になってしまった。

 



■かいけつ!
「これで助かった」という方法は?
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入院していた時にその後の自分の人生に大きな影響を与えてくれる
二人の人と出会うことができた。


その一人目が僕より5歳年上のSさんとの出会いだ。
Sさんは僕と同じように重度のやけどを負って同じ病院に入院していた。


僕は自分より酷い状態だった(と思っていた)Sさんと入院生活を共にしていくうちに、
同じ痛みや苦しみを持つ者がそばにいて生きていてくれているということで
本当に心強く思うようになり、言葉にできないほど励まされた


この時期から死にたいという気持ちが徐々に薄れていった
それはSさんを含め、同室にいた7人の優しい人たちが、
自分一人では何もできず惨めな思いで溢れていた僕に対し、
普通に接してくれたおかげで生きる活力を与えてもらったからだ。


二人目は病院の紹介で、やけどやアザなど顔にトラブルのある人にメイクを施す
リハビリメイクの第一人者
かづきれいこさんとの出会いだ


僕はこのリハビリメイクを受けることで、やけどや傷跡を
自分でほとんどカバーできるようになり、表に出やすくなった。


それを機に、人からの視線を「好奇なものだと」感じることが少なくなった。
そうして人に笑顔で接することができるようになり、
どんどん友達や仲間が増えていった。


僕を本気で好きになってくれる女性も現れ、
『今のあなただから好き。あなたはあなたのままでいいんだよ』
という言葉をもらい、


自分の中で持っていた
ちっぽけな価値観こそが自分自身を苦しめていたことに気付いた。


メイクというものを通じ
明るく元気になれたことがとても大きかったように思う。


自分の姿が変わったことで生きていけないと決めつけていたのは
自分自身の心だったことに多くの出会いによって気づかされた。



■その後。
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今の世の中が、見た目に障害を持っている人を含めた障がい者や、
心に病を持っている人にとって生きづらさを感じる世の中であり、
そんな世の中を変えたいと、オープンハートの会を発足した。


ここではどんな人でも明るく楽しく生きていける社会を目指し活動している。
どんな人でも参加できるこの会は、人にラインを引かない事をモットーにしていて、
障害のある方もない方も誰でもウェルカムなのです。


悩みの解決はできないが一緒に笑うことならできる。
そんな思いで色々な人と笑いあってきた。


僕の夢はこの世の中を温かい心を持った人で埋め尽くすこと。
社会に対して反発をするのではなく、
社会に気づかせる活動をしていこうと思っています。


本来人は優しい心を持っている。
しかし、慣れていない者に対してはどう接していいかがわからない。


ただそれだけなのである。


僕が前に出ていくことによって多くの人が救われると思う。
そして何より自分が住みやすい世の中づくりをしたい。
そう思い講演活動もしている。


小中学校、高校大学、大学、少年院、企業など、
命の大切さや、生きていることの素晴らしさを伝えている。

 


僕がこうなるためにしてきたことは二つだけ


一つは「生きる」選択をやめなかったこと


もう一つは「あきらめない」


ただそれだけでした。

 



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