生きテク No.52

生後5ヶ月で「重度障害児」と告知。 別人のような顔の娘を抱え、死のうと思ったが…
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■生きテク提供者
名前: のんちゃんの心の声
性別: 女性
職業: 主婦
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■最も自分に過酷だった状況
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次女みのりを出産した時、
「外出したいから」という医者の勝手な都合で
無理に出産させられ、
産後は母子ともに危険な状態だったにも関わらず、
医者は何の処置もせずに出かけてしまいました。

(後からわかった話ですが、そこは
医者の時間の都合で心音や羊水の検査もせずに
出産させるなど、ひどい病院だったのです)


肺に羊水などを吸い込んだままで呼吸困難になり、
みのりは病院に運ばれました。


運ばれる直前に見た娘は、
胸の辺りがボコボコになっていてとても苦しそうで、
一刻を争う危険な状態でした。


病院に運ばれるまでに6時間以上も経っていましたが、
幸いにも心停止はせず、命は取り留めました。

MRIなど検査をしてみると、
最初は「異常なし」という結果が出ました。

しかし、長時間にわたる低酸素状態で
脳に酸素がいかなかったため、
脳細胞が徐々に壊死していっていたのです。


生後2?3ヶ月経った頃、ミルクの飲みが悪くなり、
眼がボーッとするようになりました。

4ヶ月で入院することになり、
5ヶ月のMRIの検査の結果で「重度障害児」
告知されました。

「原因不明の病気で、今の医学では治せません。
このままでは身体が動かなくなってしまうので、
リハビリを始めてください」

そう言われ、
いきなり重度障害児のリハビリセンターのパンフレットを渡されました。


■どんなふうに苦しかったか?
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「重度障害児」と言われたことのショックで
頭がガンガンして嘔吐を繰り返し、
眠れない日々
が続きました。


1歩も外に出たくないのに、長女がいたので、
朝は保育園のバス停まで平然を装って歩きました。
10分間の道のりで、近所の方に会うのが辛かった。
外から家に帰って来た瞬間に涙が出るほど、
平然を装っているのが苦しかったです。


みのりは生まれた時、
クリッとした眼のかわいい赤ちゃんだったのに、
斜視になり、顔も別人のようになってしまいました。


「絶望」って、こういうことを言うんだと思いました。


リハビリセンターに入所しましたが、
1年経っても首がまったく座りません。

いいと言われるものはすべて試しましたが、
回復の兆しがまったく見えませんでした。

その上、1歳半になる頃、食べ物を噛むことができないため、
「口からの普通食は食べられない」という告知を受けました。


「ものを食べることすらできない…」


あまりのショックに、私は鬱状態になりました。

薬を飲むようになり、副作用で20kg太りました。



風呂においてある主人のカミソリで、何度自分を傷つけようと思ったことか…

「みのりと一緒に自分も死のう」と思ったけれど、
長女を残していけない。

かろうじて思いとどまりました。


■かいけつ!
「これで助かった」という方法は?
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私には、励ましてくれる家族、友人、障害児のお母さん方がいました。

人生の師匠と呼ぶべき方がおっしゃった
「絶望は希望に、不可能は可能にできる」という言葉に勇気づけられました。

また、市内の「ゆりかご園」というリハビリセンターの
S先生は「必ず成長していく」と仰ってくださいました。

「心友」のまきりんは、辛い時にはいつも励ましてくれ、
うれしい時は自分事のように喜んでくれました。

彼女は今でも、心からの友達です。

そういった方々との出逢いのおかげで、
リハビリや日々の努力を諦めずに続ける
ことができたのです。


そして、奇跡を起こしました。

2歳になった頃、首が座り、斜視までも治っていったのです。

身体がぐにゃぐにゃしていたため、お座りも無理だといわれていましたが、
3歳前には、自分の手で身体を支えて座ろうとする姿が見れるようになりました。

また、食べるという普通の行為がみのりにとっては危険を伴うため、
毎回の食事は戦いでしたが、日々の努力が実り、
4歳になる頃には刻んだものを食べられるようになりました。
自分で食べる練習も進みました。

「奇跡は起きるものではなく、起こすものだ!」と思いました。


子供は子供同士で育つ面がたくさんあると思い、保育所に入所を申し込みましたが、
重度障害児であるため、選考から外されました。

納得がいかず、
リハビリセンターの先生方やお母さん方も応援してくださったおかげで、
市の保育課と何度も話し合い、
市内で初めて、重度障害児の入所を受け入れていただくことができました。


保育所では、お友達が助けてくれたり、先生方も色々と工夫してくださり、
お友達と一緒に遊んだり、行事に参加することができました。

みのりもいつも笑顔で、
諦めずに保育所に入れてあげることができて本当によかったと感無量でした。


年長組に進級するにあたり、新たな挑戦をしました。

当時はまだ、つかまり立ちがやっとできるようになった状態だったのですが、
少しずつ階段の上り下りに挑戦していったのです。


家でも続け、小学校に入ってからも続けました。

小学校の間に、歩けるようになってほしい。
ランドセルを背負って歩く姿を見ることが、私の大きな夢でした。

みのりは現在11歳。6年生になりましたが、
ちょうど1年前から歩けるようになりました。

歩き始めた日、みのりが恐る恐る、でも必死に、
自分の足で大地を踏みしめ、1歩1歩歩いてくるのです。

あのときの光景は一生忘れることのできない
「我が子の勝利」の姿でした。
この10年のことが走馬灯のようによみがえり、
その場に泣き崩れてしまいました。
先生方もお母さん方も、一緒に泣いてくれました。
お友達も拍手をして喜んでくれました。


みのりは、厳しいリハビリで大泣きしながらも頑張り続け、
今では1人で階段の上り下りができるようになりました。


素直な心で頑張り続けることで、
「不可能を可能に」「絶望を希望に」変えることができると
みのりは教えてくれました。


■その後。
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今は、障害児のお母さんやお父さん、障害者の方々、
そして悩んでいる人や苦しんでいる人を思いとどまらせたり、
悩みを解決する手伝いをしたいと思っています。

どん底の人を、1人でも多く救いたい。
どんな人にも、必ず可能性と使命があると思うからです。


そしてみのりは、
成人になる年に自立できるようになればと願ってます。

みのりには好きなことをたくさんやらせてあげて、
可能性を広げてあげたい。

今はみのりの可能性がどれだけ広がるのかが、楽しみです。


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