夫のDVからPTSDになり、生きた心地がしなかった数年間を超えて
生きテク提供者
名前: M&M
性別: 女性
職業: 主婦
最も自分に過酷だった状況
今から15年ほど前、
結婚して10年目のあたりから主人のDVが始まりました。
キッカケは公私共に主人の思い通りにならない状況が続き、
イライラすることが重なった結果だと思います。
初めは言葉の暴力だけでしたが、
次第に壁や家具を殴る、茶碗を投げるなど物を使って威嚇し、
最後は直接私に危害を加えるようになりました。
普段は穏やかな人なのに、食事中や普段の会話の途中で
何か気に食わないと突然怒り出すようになりました。
キレると別人のようになって
当時小学校低学年だった息子たちの前でも私に手を上げるので、いつもビクビク怯えていました。
そのうち私は、主人が帰ってくる時間が近づくと
腹痛や頭痛が始まり、
体調が悪くなって寝込みがちになりました。
何もする気力が無くなり、
だるくてとても起きていられなくなるのですが、
私が寝込んでいると、主人は
「仮病だろう」「主婦の仕事をちゃんとしろ」と怒るので、
体調の悪化と夫の不機嫌という、悪循環に陥っていました。
結婚して10年目のあたりから主人のDVが始まりました。
キッカケは公私共に主人の思い通りにならない状況が続き、
イライラすることが重なった結果だと思います。
初めは言葉の暴力だけでしたが、
次第に壁や家具を殴る、茶碗を投げるなど物を使って威嚇し、
最後は直接私に危害を加えるようになりました。
普段は穏やかな人なのに、食事中や普段の会話の途中で
何か気に食わないと突然怒り出すようになりました。
キレると別人のようになって
当時小学校低学年だった息子たちの前でも私に手を上げるので、いつもビクビク怯えていました。
そのうち私は、主人が帰ってくる時間が近づくと
腹痛や頭痛が始まり、
体調が悪くなって寝込みがちになりました。
何もする気力が無くなり、
だるくてとても起きていられなくなるのですが、
私が寝込んでいると、主人は
「仮病だろう」「主婦の仕事をちゃんとしろ」と怒るので、
体調の悪化と夫の不機嫌という、悪循環に陥っていました。
どんなふうに苦しかったか?
暴力を受けたときの物理的な痛みだけでなく、
些細なことで突然凶暴化する主人が怖くて、
精神的に始終怯えていることがとても辛かったです。
「生きた心地がしない」という言葉がピッタリで、
身体は生きているけれど心は死んでいる、という感じの毎日でした。
主人からいきなり腕に熱いコーヒーをかけられた後には、
その熱さと恐怖がいつまでも記憶に残り、
炊事の時に手にお湯がかかると
胸が苦しくなるような恐怖を感じるようになって、
その後何年も洗い物をするのが苦痛でたまりませんでした。
(PTSDの症状です)
そのうち味覚障害、円形脱毛、離人症にもなってしまいました。
特に味覚障害は何を食べても
ゴムを噛んでいるようで全く味がしないので
料理の味見をすることが出来ず、
勘を頼りに家族の食事を作っていました。
食べ物を味わえないというのは、
食べることが大好きな自分にとってはとても辛かったです。
会社役員をしていた主人の
社会的名誉を傷つけてはいけないという思いもあり、
「自分さえガマンすれば…」と、
周囲の人には相談しなかったので、
実家の両親も私が暴力を受けていることは全く知らず、
孤立無援の状態でした。
暴力を受けていた割には目立った外傷は無かったので、
対外的には平然と過ごしていましたが、
主人の気に障るといけないので思ったことを素直に口に出して言えない、
自分の考えを表に出すことが出来ない
という状態は窒息しそうで、
自分自身に喜びが無く、
生きている意味を感じられない日々は、
とても虚しいものでした。
主人の暴力は私だけに向けられ、
子ども達に手を上げなかったのは幸いですが、
家の中で父親が母親を殴るのを目にする
子ども達の心を想うと、
情けない気持ちで一杯でした。
自分など存在する価値が無い、
消えてしまいたい、死んでしまいたい、という想いは常にありましたが、
子どもへの責任感から、
「とにかく下の子が小学校を卒業するまではお母さん役を頑張ろう」と
期限付きで母や妻という任務を遂行する覚悟を決めて、
何とか毎日を過ごしていました。
些細なことで突然凶暴化する主人が怖くて、
精神的に始終怯えていることがとても辛かったです。
「生きた心地がしない」という言葉がピッタリで、
身体は生きているけれど心は死んでいる、という感じの毎日でした。
主人からいきなり腕に熱いコーヒーをかけられた後には、
その熱さと恐怖がいつまでも記憶に残り、
炊事の時に手にお湯がかかると
胸が苦しくなるような恐怖を感じるようになって、
その後何年も洗い物をするのが苦痛でたまりませんでした。
(PTSDの症状です)
そのうち味覚障害、円形脱毛、離人症にもなってしまいました。
特に味覚障害は何を食べても
ゴムを噛んでいるようで全く味がしないので
料理の味見をすることが出来ず、
勘を頼りに家族の食事を作っていました。
食べ物を味わえないというのは、
食べることが大好きな自分にとってはとても辛かったです。
会社役員をしていた主人の
社会的名誉を傷つけてはいけないという思いもあり、
「自分さえガマンすれば…」と、
周囲の人には相談しなかったので、
実家の両親も私が暴力を受けていることは全く知らず、
孤立無援の状態でした。
暴力を受けていた割には目立った外傷は無かったので、
対外的には平然と過ごしていましたが、
主人の気に障るといけないので思ったことを素直に口に出して言えない、
自分の考えを表に出すことが出来ない
という状態は窒息しそうで、
自分自身に喜びが無く、
生きている意味を感じられない日々は、
とても虚しいものでした。
主人の暴力は私だけに向けられ、
子ども達に手を上げなかったのは幸いですが、
家の中で父親が母親を殴るのを目にする
子ども達の心を想うと、
情けない気持ちで一杯でした。
自分など存在する価値が無い、
消えてしまいたい、死んでしまいたい、という想いは常にありましたが、
子どもへの責任感から、
「とにかく下の子が小学校を卒業するまではお母さん役を頑張ろう」と
期限付きで母や妻という任務を遂行する覚悟を決めて、
何とか毎日を過ごしていました。
かいけつ!「これで助かった」という方法は?
3つのことをきっかけに立ち直ることができました。
1つ目は、ボランティアを始めたこと。
家の近くで特別養護老人ホームのボランティア募集の貼り紙を見つけ、
「こんな自分でも何か役に立つことがあるかもしれない」と、
思い切って応募し、ボランティア活動を始めました。
老人ホームで洗濯した布おむつを畳んだり、
ホームのイベントのバスハイクのときには車椅子を押したり、
近隣の一人暮らしの老人に給食を届けたり…。
給食配達当番は週に一度の担当でしたが、
皆さんとても喜んでくれましたし、とても感謝されました。
「いつも来てくれるのを楽しみに待っているのよ」
と言葉をかけて頂き、
感謝され、役立っている自分をしみじみと実感しました。
バスハイクのときに、一人では歩けないご老人方が
「久しぶりに外の景色が見れた!」「外出できて嬉しい!」
と車椅子で喜んでいる姿を見て、
「自分は五体満足で歩けるのに、
家で寝込んでいる場合ではない」と
思えるようにもなりました。
2つ目は、共通の趣味を持つ友人ができたこと。
好きだった音楽バンドのファンクラブに入り、
そこの会報で「文通友達募集」の広告を見つけました。
息が詰まる毎日の中、共通の話題が持てる友達が欲しいと思ったので、返事が来るかしら?とドキドキしながら手紙を送り、
1人の女性と文通を始めたところ、
その人は、北海道から沖縄まで日本中に100人近くの文通友達がいたので、その女性を介して私にも日本全国に大勢の文通友達が出来ました。
当時はまだパソコンを持っていなかったので、アナログの郵便でしたが、「今度のコンサート、どんな格好で行く?」そんな他愛もない手紙を地方の友人達とやりとりして楽しむことができました。
日常と完全に離れたところで
共通の趣味を持つ友人ができ、
純粋に楽しむためだけの時間を
持てるようになったことで心が和み、
家庭内でのストレスを発散することができたと思います。
3つ目は、カウンセラーの資格をとったこと。
DVとPTSDで鬱状態になっている自分を何とかしなければ、
という思いから、
カウンセリングにかかりたいと思いましたが、
専業主婦の自分には自由に使えるお金がないので
受けることが出来ませんでした。
「自分で自分を救うしかない」
という考えから、
セルフヘルプの本などを読んでいるうちに、
「カウンセラーになる勉強をしたい」
と思うようになりました。
ちょうどその頃、
区が主催する「カウンセラー養成講座」があることを知り、
受講資格である
「区内の老人ホームなどでボランティア活動を行っている人」
という条件を満たしていたので応募してみたところ、
運良く抽選に当たり、
区の資金援助を受けてカウンセラー養成講座に通うことになりました。
心理カウンセラーとして研修を受ける中で、
色々な人の悩みを聞きながら、
自分自身にもたくさんの気付きを得ることが出来ましたし、
自立するキッカケにもなりました。
カウンセラーとして最初のクライアントは主人でした。
主人の機嫌が良い時を見計らって、根気良く対話を続けました。
「俺は悪くない」「悪いのはお前だ!」と
言い張っていた主人が、
ある時、自らの過ちに気が付き
暴力をふるったことことを三日間泣き通して謝り、
子ども達にも謝罪をしてくれたので、
私は心から救われた想いでした。
そこから主人の暴力そのものは収まりましたが、
私の中の恐怖体験のフラッシュバックはすぐには消えず、
怖い夢を見たり不眠が続きました。
今まで暴力を受けていた現場である自宅に居続けることが辛かったので、
しばらく一人でゆっくりと心の傷を癒したいと思い、
「しばらく別居させてほしい」と申し出て、家を出ました。
その後、大勢の人の助けを借りて
少しづつ自分の心を落ち着けることが出来ました。
別居中に主人から離婚調停の申し入れがあったので結局は協議離婚しましたが、
今では貴重な体験と良い勉強をさせてもらった、
と感謝しています。
1つ目は、ボランティアを始めたこと。
家の近くで特別養護老人ホームのボランティア募集の貼り紙を見つけ、
「こんな自分でも何か役に立つことがあるかもしれない」と、
思い切って応募し、ボランティア活動を始めました。
老人ホームで洗濯した布おむつを畳んだり、
ホームのイベントのバスハイクのときには車椅子を押したり、
近隣の一人暮らしの老人に給食を届けたり…。
給食配達当番は週に一度の担当でしたが、
皆さんとても喜んでくれましたし、とても感謝されました。
「いつも来てくれるのを楽しみに待っているのよ」
と言葉をかけて頂き、
感謝され、役立っている自分をしみじみと実感しました。
バスハイクのときに、一人では歩けないご老人方が
「久しぶりに外の景色が見れた!」「外出できて嬉しい!」
と車椅子で喜んでいる姿を見て、
「自分は五体満足で歩けるのに、
家で寝込んでいる場合ではない」と
思えるようにもなりました。
2つ目は、共通の趣味を持つ友人ができたこと。
好きだった音楽バンドのファンクラブに入り、
そこの会報で「文通友達募集」の広告を見つけました。
息が詰まる毎日の中、共通の話題が持てる友達が欲しいと思ったので、返事が来るかしら?とドキドキしながら手紙を送り、
1人の女性と文通を始めたところ、
その人は、北海道から沖縄まで日本中に100人近くの文通友達がいたので、その女性を介して私にも日本全国に大勢の文通友達が出来ました。
当時はまだパソコンを持っていなかったので、アナログの郵便でしたが、「今度のコンサート、どんな格好で行く?」そんな他愛もない手紙を地方の友人達とやりとりして楽しむことができました。
日常と完全に離れたところで
共通の趣味を持つ友人ができ、
純粋に楽しむためだけの時間を
持てるようになったことで心が和み、
家庭内でのストレスを発散することができたと思います。
3つ目は、カウンセラーの資格をとったこと。
DVとPTSDで鬱状態になっている自分を何とかしなければ、
という思いから、
カウンセリングにかかりたいと思いましたが、
専業主婦の自分には自由に使えるお金がないので
受けることが出来ませんでした。
「自分で自分を救うしかない」
という考えから、
セルフヘルプの本などを読んでいるうちに、
「カウンセラーになる勉強をしたい」
と思うようになりました。
ちょうどその頃、
区が主催する「カウンセラー養成講座」があることを知り、
受講資格である
「区内の老人ホームなどでボランティア活動を行っている人」
という条件を満たしていたので応募してみたところ、
運良く抽選に当たり、
区の資金援助を受けてカウンセラー養成講座に通うことになりました。
心理カウンセラーとして研修を受ける中で、
色々な人の悩みを聞きながら、
自分自身にもたくさんの気付きを得ることが出来ましたし、
自立するキッカケにもなりました。
カウンセラーとして最初のクライアントは主人でした。
主人の機嫌が良い時を見計らって、根気良く対話を続けました。
「俺は悪くない」「悪いのはお前だ!」と
言い張っていた主人が、
ある時、自らの過ちに気が付き
暴力をふるったことことを三日間泣き通して謝り、
子ども達にも謝罪をしてくれたので、
私は心から救われた想いでした。
そこから主人の暴力そのものは収まりましたが、
私の中の恐怖体験のフラッシュバックはすぐには消えず、
怖い夢を見たり不眠が続きました。
今まで暴力を受けていた現場である自宅に居続けることが辛かったので、
しばらく一人でゆっくりと心の傷を癒したいと思い、
「しばらく別居させてほしい」と申し出て、家を出ました。
その後、大勢の人の助けを借りて
少しづつ自分の心を落ち着けることが出来ました。
別居中に主人から離婚調停の申し入れがあったので結局は協議離婚しましたが、
今では貴重な体験と良い勉強をさせてもらった、
と感謝しています。
その後。苦境を乗り越えた今、これから何をしたい?
私は結婚前は実の父親から、
結婚してからは主人から暴力を受けましたが、
そのお陰で人間の心理や人格と生育環境について
深く考察する機会に恵まれ、忍耐力もつきました。
自分の体験を踏まえ、
DVに限らず辛い立場に居る方の力になりたい、
人生の闇の中に光を見出すお手伝いをしたい、
と考えております。
カウンセラーの仕事を続けながら
「幸せに生きる」というテーマに向き合い、
自分自身が平和な心で「自分らしく幸せに生きる」ことを
実践していきたいと思います。
結婚してからは主人から暴力を受けましたが、
そのお陰で人間の心理や人格と生育環境について
深く考察する機会に恵まれ、忍耐力もつきました。
自分の体験を踏まえ、
DVに限らず辛い立場に居る方の力になりたい、
人生の闇の中に光を見出すお手伝いをしたい、
と考えております。
カウンセラーの仕事を続けながら
「幸せに生きる」というテーマに向き合い、
自分自身が平和な心で「自分らしく幸せに生きる」ことを
実践していきたいと思います。
この生きテクを読んで、死ぬのをやめよう、もしくは生きてみようと思った
この記事を読んで自殺をやめた人
273 人
この記事に対するコメント
quより:
2015年10月05日 20:51:11
私もDVを受けて、逃げて離婚しました。
独占欲と性欲、愛情欲の強い相手で、その行動や言動は他人にはなかなか理解しがたいものでした。そのため、誰にもその内容を告げられない状態で生活していました。車の中で閉じ込められて、車内で殴られたり、スーパーでも叩かれたり、家の中ではヘルメットやフライパンで頭を殴られたり、髪を鷲づかみにして床に叩き付けられたり、耳を何度も叩かれて3倍くらいに腫れ上がり、内出血したこともありました。
家具を壊すのもあって、物を部屋の中で投げつけることも何度もありました。
怒鳴るというレベルではない、言葉にならない暴言を吐き続け、私を虐げ続けました。
自分の考えで洗脳してしまいたかったのでしょうが、私はうつ病に既にかかっている状態で、言われたことも忘れやすい、集中力もない、万年睡眠不足状態で、自分を責めることが余計ひどくなりました。
もう、放心状態になって親にたすけてとメールを
送らなければ、今生きていただろうかと思います。
人の過去なんて変えられないし責めても何も生まれないのに、それを受け入れず責められ続け、毎日、夜の営みを私から言うようにも仕向けられました。
弁護士や警察の力を借りて、離婚はでき実家にいますが
何度消えてなくなりたいと思ったか分かりません。
フラッシュバックや過呼吸も治まらないし、死神のようなものの気配を感じたこともあります。
いつの日か、いつも笑う自分がくるのか、自分にしか分からない苦しさに耐えるしかありません。
どうしたらいいのでしょうね。。
ムーコより:
2015年07月29日 12:44:57
今の自分に良く似たケースだと思った。
自殺も何度も考えたが、練炭を用意していたのを知った夫からは、死ぬなら信号のない横断歩道で車にはねられて死んでくれと言われた。
子供には幼稚園くらいのときに包丁を投げた。
児童相談所の人が訪ねてきたが、目の前に夫がいる状態で 子供は本当のことは言えなかった。
今はとにかく子供が社会人になってくれるまで、と思っているが、今直ぐ逃げることが出来るのならばそういうことを相談する場所が近くにあるならば教えて欲しいです。
なあこより:
2015年07月16日 20:07:22
私の父親が酔うと人が変わったようになり母親に暴力暴言私が止めても聞く耳を持たず姉が家に来て3時間以上話し合いしても聞かず姉の子供に対して暴言を言い普段泣かない姉が泣いていたことがあり、本当にどうしようもない父親で、もうどうしたらいいかわからず悩んでいるとこの記事を見つけて
心が少し楽になりました。ありがとうございます。
父親は酒癖がすごく悪くこれからも変わらないと思いますがこの記事を思い出して前向きにがんばって生きたいと思います。本当にありがとうございます。
jより:
2015年03月30日 01:02:32
必ず、今の状況から抜き出れば光があるのはわかってます。でも正常な判断ができす、現状維持。。
生きた心地がしない気持ち、もう限界です。
自分が居るべき場所に自分がいないんです。
弱者とわかって夫は容赦なく襲って来ます。
何が悪いのか判断ができません。
助けてほしいと悲鳴を上げても結局、自分の事は自分で
道を切り開いていかないといけない。
それでけ。
ぴえこより:
2015年02月28日 08:43:09
子供のつながりで公的な窓口に相談しにくい状況でした。
カウンセラーの資格いいと思いました。私も誰かの役に立ってると感じたい!
hitomiより:
2015年01月21日 16:08:19
私は50歳、9歳の息子がいます。私も同じ経験をしてとても苦しいです。これから人生をどのようにいきていこうか悩んでいます。父親、2度の結婚、私の人生は、dv人生と思うと悲しくなります。 人を信じることが怖く、自分には人を見る目がないと思い毎日が辛いです。 息子の成長が心配です。何とかがんばってみます。
ひまわりより:
2014年12月19日 18:44:02
少しだけ光が見えたようなきがします。私もPTSD. パニック障害に苦しんでいます。
みっこより:
2014年05月21日 22:28:27
彼からのDVで毎日動悸と頭痛がしています。自分を責めるだけでは解決しないと理解できますが、毎日DVや無理強いなど力でおさえつけられると自分の感覚がわからなくなってきました。だけど、自分のできることを探し、麻痺しそうなパターンから脱出したい、屈したくないと考えれる余地を文面から読みとれました。
ぽんぽこより:
2014年01月04日 14:24:48
DVは決して許されることではありません。私は身体的なものはありませんでしたが
言葉による精神的ダメージは大きいものでした。やる気を失い、生きることが辛くなり、他人を責めました。真面目に生きてきた私がなぜこんなひどい仕打ちを受けなければいけないの?それでも生きろというのはあまりにもむごいことだと。でもこれからもし楽しいことや誰にもないような幸せが待っているならばそれに懸けてみようじゃないか。自分の人生に懸けてやる!そんな気持ちになりました。
Okeiより:
2012年02月13日 08:33:08
封建時代と違って自分の立ち位置が不明瞭なので、「見えづらいモラハラ」が確実に増大していると思います(封建時代なら上官の横暴も姑のイビリも「ありがちなこと」で理解された)。
でも、「反対同盟!」みたいな解決方法では、何も根本的に変わらない気がする。加害するほうも幼少に受けたモラハラを処理しきれずそうなってきているので、社会全体として、自尊感情を肯定できる仕組みをつくっていかなければならない(心底共感していなくても親や教師が“とりあえず褒める”教育は最悪)。
モラハラ構造は、要するに組み合わせの問題であって、加害者も同様のタイプの相手~自己正当化・責任転嫁・自己弁護の塊~の人と暮らせばモラハラにならないのかもしれません。同様に幼少期に抑圧を受けながら逆になったタイプ~自分さえ我慢すれば…~とカップリングになると、問題が起こりやすいのではないかと思います。・
モラが「いいこと」だとは思いませんが、胡蝶蘭は一度寒風にさらさないと大輪の花をつけません。「チャーリーとチョコレート工場」のウォンカさんは父親からのモラハラに遭っていますが、「一番になれ!」を強要する父親でなかったら、世界一のお菓子作りの名人になっていたかどうかわかりません。
このかたのエピソードのように、その体験を前向きことと捉えるかたが一人でも増えたらいいなと思います。
ハーモニーより:
2010年02月12日 23:45:43
私もDV(精神的な暴力=モラルハラスメント)から
逃げて、離婚裁判中です。
娘が父親側につき、すでに2年会えません。
体調も悪く、仕事のめどもつかず、経済の不安も
つきません。
でも、、、そんななか、ボランティアを初めて、
離婚して新しい生活をしている人がいる、、、
私もなんとか踏ん張って、生きていきたい。
DVで苦しんでいる人、多いです。項目立ててください。お願いします。
つい、先日も宮城県石巻で、18歳と20歳の
女性がDV殺人で、殺されました。
私に身体的暴力は、ありませんでしたが、
何をやっても、責められる苦しさ、無視が
続く苦しさは、言いようがありません。
はなれても、自尊心がばらばらで、自分の
居場所がない感じなんです。
yuanconmeiより:
2010年02月09日 17:35:53
私も夫からも暴力に5年以上苦しめられました。手足の痺れや動機 涙が止まらないなど身体症状が現れ やっとおかしいぞおもい原因が夫の暴力であったことに気がつき。子供も0歳だったので本当に大変で自殺を考えました。
あなたの生きてを読んで、暴力はどんな人をも 傷つけるのだとわかりました。そしてそれを乗り越えて新しい道が見つけられるということがわかって安心しました。
そのうちに私の体験も投稿したいです。
この生きテクのライセンス
生きテクに掲載している記事・写真・イラストなどの著作物は、株式会社Posi-mediaが所有し、日本の著作権法及びベルヌ条約などの国際条約により、著作権の保護を受けています。
無断で複製、公衆送信、翻案、配布等の利用をすることを禁止します。
無断で複製、公衆送信、翻案、配布等の利用をすることを禁止します。