父とは別な機会にですが、
やはり私を分厚い辞書で殴って叱っていた母が、
「お前が可愛いからこうするんだ」といって、おお泣きしながら
「殴る自分も痛い」と言っていた事、
時には父との間に入って殴られてくれていたこと。
わたしが死んだら、母は泣くな、と、思いました。
父が死んでも自分はちっとも悲しくない、と思っていましたが、
母に泣かれるのは困ると思いました。
受験は、当然失敗しました(本人に全くやる気が無いのですから)。
私は心からほっとしました。
両親(特に母)が、受験の失敗をきっかけに、自分達の間違い
(娘の望みを読み違えていたこと)に気づいて、路線変更したのです。
しかし、私の自意識が
「死にたい」「消えたい」からはっきり1歩離れたのは、
小学4年から通っていたキリスト教の教会で参加した
中学生の夏期キャンプで、
「神は居る」
「私は神が望んでこの世に生まれたのであって、
生きている意味がある」
ことを聞き、取り敢えずその考え方に賭けてみる気になった時です。
なにしろ、世界には(やりかたはともかく)この考え方を
公式に表明している人(クリスチャン)が一杯居るのですし、
歴史にも影響したほどの考えなら、なにか賭ける意味くらいは
あるかもと思って。